株式会社創土社

酒井武史

ジャーナリズム精神は消えない

~世の中に“善き”本を出すために~
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株式会社創土社 社長 酒井 武史氏のONLY STORY

「ジャーナリズム精神は消えない。」


私が大学を卒業したのは1961年3月、まさに60年安保闘争世代にあたります。いまから55年前の1960年5月、 国会で新日米安全保障条約が強行採決され、現在の日米軍事同盟はここから本格的な一歩を踏み出しました。この安保条約成立を阻止しようと、1959年から60年にかけて大きく盛り上がったのが安保闘争といわれる大衆運動です。

当時はほとんどの大学で学生自治会が結成されており、全日本学生自治会総連合(全学連)という連合体に加盟していました。安保闘争の主役を担ったのは、この「全学連」でした。ただし、全学連は当時、日本共産党系とそれを批判する反日共系とに分かれ、激しく対立していました。私の大学自治会執行部は反日共系でしたが、小さな大学でしたから、デモに出かけるときは、どちらのグループも一緒でした。

この時期、毎日のようにデモに出かけていました。いちばんの思い出は、1960年6月15日、全学連が国会へ突入しようとした際に、東大生・樺美智子さんが、衆議院南通用門前で警官隊と衝突し、亡くなった日のことでしょう。私たちのグループも国会構内へ入りました。構内から引き揚げるとき、またまた警官隊と衝突し、散り散りになって逃げましたが、眼鏡を落としたのが、貧乏学生の私にとっては痛かったです。

安保条約が成立すると、安保闘争そのものは鎮静化していきました。さて、次はどこへ就職するか――。私は全学連の“一般学生”のひとりとして活動したにすぎないのですが、もし就職の面接でそのことを訊かれれば、「安保闘争に参加しました」と正直にこたえるしかありません。一般の会社は「世間を騒がせたゼンガクレン」を採用したがらないでしょう。その点、マスメディアの業界では「ゼンガクレン」だからといって忌避する傾向は弱いと思われていました。私の仲間も、マスメディア志望が多かったです。幸いある新聞社が私を採ってくれました。もともと私の夢はジャーリストになることでしたから、うれしかったです。

入社後はあちこちの部署に廻されましたが、雑誌部門がいちばん長かったです。仕事が忙しく、精神的にも充実したのは20代後半から30代にかけての時期でした。当時、日本では「70年安保闘争」、海外ではベトナム戦争、中国の文化大革命など内外とも大きな渦が巻き起こっていました。私自身は、大学闘争、反公害闘争、いろいろな市民運動の現場の取材に走り廻っていました。なかでも、もっとも影響を受けたのが全共闘運動でした。

全共闘運動が提起した問題はいろいろありました。今でもさまざまな論者が総括をしていますが、私にとってのひとつあげるとすれば、大学教授などの当時の“知識人”たちに「おまえたちは社会にとってどういう存在なのか」という根源的な問いを突きつけることです。いままで大マスコミという安全地帯のなかで漫然と記者稼業をつづけてきた私にとって、この問いかけはまさに根源的でした。それからはどんな取材のときも、なぜこのテーマを選んだのか、どういう角度でアプローチするのか、どういう形で読者に伝えるのか、その記事が社会に与える影響はどうなのか、などというジャーリストとしてのイロハを真剣に考えるようになりました。

「自分の思いを伝えられるかもしれない。」出版業の困難と面白さ


50歳を迎えた1989年12月、新聞社を退社しました。定年までまだ10年残っていたのですが、かなり前から組織の中で仕事をすることに限界を感じていたので、会社に未練はありませんでした。はじめはフリージャナリストとして生きていこうと考えていたのですが、すぐに食っていけないことがわかりました。そんな折り、私の大学の先輩で新評論という人文系の老舗出版社の社長さんから、「ウチへ来ないか」と誘いがありました。それは断り、そのかわり「私は自分の出版社をつくりますから、そこで作った本を新評論ブランドで売ってください」と頼みました。出版社を設立したからといって、すぐに本を書店で流通させることはできません。出版社は問屋にあたる取次ぎ(トーハン、日販など)に取引口座を設ける必要がありますが、それは容易ではありません。そこで、既成の出版社に手数料を払って販売を依頼するケースがよくあることでした。わたしもそのシステムを利用することにし、1990年4月、武照舎という出版社を資本金1000万円で設立しました。

出版社の経営者となり、自分で取材して記事を書くことはなくなりましたが、ジャーナリストとして姿勢を変えることはありませんでした。著者が社外の人ですが、どなたにどんなテーマで書いても自分の思いを伝えられるかもしれないらうかを決めるのは編集者です。編集者は通常黒衣的存在ですが、私は世に出る多くの本は著者と編集者の二人三脚の産物だと考えています。

武照舎を設立して最初のささやかなヒットは1991年3月刊行の『日本人の黒人観――問題は「ちびくろサンボ」だけではない』でした。前年の1990年3月、当時の梶山法相が記者会見で黒人に対する差別発言をし、国際的にも問題になりました。また童話『ちびくろサンボ』が差別童話かどうかという議論も高まっていました。そこで私は、来日していた米国の黒人社会学者ジョン・G・ラッセルさんに執筆を依頼しました。本書は日本における黒人差別の実態に切り込み、おおきな反響を呼びました。

2001年、お世話になっていた新評論の社長さんが退任することになり、新評論に販売を依頼する方式は終わりにすることにしました。そこで、同年3月、当時休眠中だった創土社を私が買い取り、現在に至っています。創土社は1970年1月に設立された老舗です。

創土社になってからも、差別問題は重要なテーマまでした。2001年6月、桜井厚・岸衛・編『屠場文化』を刊行し、部落差別の一角に光をあてました。旧版は絶版になりましたので、『誰も知らない屠場の仕事』とタイトル変えて廉価版で再販しています。またハンセン病に関連した本として、2009年8月、群馬県にあるハンセン病治療施設入所者の証言集『栗生楽泉園入所者証言集』上・中・下を刊行しました。近年、従軍慰安婦問題を矮小化するような議論が横行していますが、そんな人たちには2004年4月刊行の石田米子・内田知行編『黄土の村の性暴力――大娘(ダーニャン)たちの戦争は終わらない』をぜひ読んでもらいたいものです。

「波を乗り切る」


1990年代末期以降、出版業界は縮小を続けています。本当に本は読まれなくなりました。当社では新刊ができると各地の書店に置いてもらうようにファックスで打診しますが、ここ2 ~3 年は、「閉店したので新刊案内の連絡は無用」と言われることが増えました。町の書店はどんどんなくなっていきます。大手では芳林堂が破産しました。紀伊國屋書店の新宿南口店、ジュンク堂千日前店も閉店しました。当然、出版社の大半は青息吐息の状況で、ウチも例外ではありません。

それでは、なぜ出版という仕事をやめないのか。それは、「この仕事を通して、世の中へ自分の考え方を届けることができるかもしれない」という、ある種の幻想があるからでしょう。

当社の特徴は、専門書だけではなく、文学ではH ・P ラヴクラフトの作品集をライトノベル化した『ラヴクラフトライト』シリーズ、菊地秀行氏の『邪心金融道』『妖神グルメ』や、1980年代に流行したゲームブックの再販など、幅広く手掛けています。

現在の苦境の波を乗り切るために、できることはすべてやろうと考えています。

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