田中 昌男
POSTED | 2016.08.21 Sun |
---|
TAGS | 従業員数:31〜50人 業種:その他 創立:15年以上 決裁者の年齢:70代 商材:BtoC |
---|
扱うなら、欧米の趣味の良い雑貨を。
商人魂が問いかける三方幸せな経営力とは。Topics
株式会社メテックス 社長 田中 昌男氏のONLY STORY
株式会社メテックス
代表取締役 田中 昌男 様
=======================================-
昭和45年(1970年)
慶應義塾大学法学部法律学科卒業。
三井物産等勤務中に ロンドン及びニューヨークに通算10年駐在。
平成1年(1989年)
米国ウィスコンシン州政府駐日代表就任。
アメリカ州政府在日事務所協議会(ASOA)副会長等歴任。
平成5年(1993年)
当社代表取締役就任。
平成28年(2016年)
当社会長就任。
人生を一変させた、一通の手紙
私が子供の頃の日本は、アメリカ供与のアメリカでは家畜の餌、とてもまずい脱脂粉乳が小学校の給食、とても貧しい時代でした。働くなら貧しく資源の無い日本を貿易で豊かにしたい、商社で働きたいと三井物産を志願、幸い採用されました。英語力向上と海外事情を知る為世界中を訪問、大学1年、親友との世界一周の際、父に将来世界の注目を浴びる中近東を見ておけと言われ、南回りでヨーロッパへ行きました。父の通訳兼カバン持ちで欧米・アジアオセアニアや南米も訪問しました。
三井物産に入社後、3年目の25歳で担当していた船舶ビジネスの世界の中心、ロンドン支店に配属されましたが、赴任数か月後に第一次オイルショックが起こり、一躍中近東が世界の注目を浴び、父の予言に納得しました。当時の海外勤務は憧れの的、張り切って働きまくりました。先輩がやっていなかった新しい分野にも挑戦、取引先の信頼を得る様々の工夫をし、売上を1年目に2倍、2年目には3倍に伸ばしました。日本にいた彼女と結婚、双子の女の子も授かり人生が輝いていました。
そんな幸せな生活が、日本からの一通の手紙で激変する事になりました。両親経営の社員百人余り、売上も百億円近い、繊維の中心船場でもかなり名の知れた繊維問屋の筆頭役員からで、過剰在庫で経営を圧迫、更に父の健康状態がすぐれず、非常事態なので、僕に迷惑をかける結果になるかもしれないが、帰国して会社と両親を救ってほしいと切々と訴えてきました。従業員数人、店と家が同じだった頃から一緒に育った両親の会社と社員、恵まれた教育を与えてくれた両親の事を考えると、大好きだった三井物産でしたが、退職する以外の選択はありませんでした。
累損と不良在庫の処分で20億円以上の赤字、利益の薄い繊維の商売では簡単に回復できる数字ではありませんが、まずは黒字化が必須、それには、「入りを図り、出ずるを制する」、即ち売上・利益を増やし、費用を減らす、のみです。問題は実現方法です。
赤字なのに両親はそれぞれ運転手付、ガソリン食いのアメ車に乗っていました。説得し、国産車1台に同乗してもらいました。それだけで年間1千万円の経費節減。又社員食堂だったフロアを和食屋さんを誘致、家賃収入を得ると同時に社員食堂の経費をゼロにしました。社員は30%割引にしてもらったので、社員も喜びました。これは1500万円の収支改善。銀行にも実情と改善方針を説明、大幅な金利引下げを頂き、数千万の節約となり、とても感謝しました。当然売上アップ、在庫処分にも必死で取り組みました。
繊維の在庫は、半値八掛け五割引き、原価の20%にしかなりません。しかしキャッシュフローが会社存続には必須、思い切って処分しました。経営状態は劇的に改善され、1年で経常黒字に転換しましたが、残念ながら、両親との仲は悪化、争いが増えたので、再建の目途が立ったのを機に退職、サラリーマンに戻りました。
三方良しの、まともな商売をしたい。
本場エスプレッソ、ペリーニと共に素敵な雑貨を
この本当のエスプレッソの飲み方を日本に普及させれば、市場のパイが増える。コーヒーが健康に良いと言われ始めています。エスプレッソを気軽に楽しめるカフェを展開し、雑貨も売る、トータルヨーロッパ文化をペリーニカフェで展開するのが夢です。ぜひ、インペリアルタワー前のカッフェペリーニをお訪ね下さい。